ネットとデスクトップの境界線(PC世代の限界?)
前回の日記について匿名さんからコメントがありましたので、そもそも僕がなぜ「ネットとデスクトップの境界線」を〈認識〉すべきと考えているか、その理由をまとめてみました。
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僕がこの境界線を意識しだしたのは、以下のような問題について考えているときでした。
【問題】
インターネット上に限らず、職場などのクローズドな環境でも、blogやWikiに情報を公開してくれない人が(主に年長者に)多いのは何故か?
「若い人の方が新しいことに飛びつきやすい」とか「歳を取ると自分の持つ情報を隠す(嫌な)知恵が付く」とかいう事情は当然あるにしても、それ以外にも何か根本的な原因があるのではないか? そう考えた末に、問題の主な原因として思いついたのが以下の2つです。
【原因】
1. 普通の人は、自分の持つ情報を改めて文字に起こすという習慣がない。
2. 現状のblogやWikiは自分の持つ情報を文字にすることが情報の公開に直結するため、情報公開の抵抗感がそのまま情報入力の抵抗感にもなっている。*1
原因2は少しわかりにくいかと思いますが、要するに「自分の頭の中にある情報と、インターネットに公開される情報の間に対する境界線が、自分の頭の中にしかない」というのが現状のblogやWikiなのではないか、ということです。この不自由さは、例えるなら、点数の自動計算をしてくれないボーリング場でボーリングをしているような不自由さ、に似ているような気がします。
そして、以下がそれぞれの原因に対する解決策の方向性(案)です。
【解決策】
各個人の手元のデスクトップ環境に、1.考えを文字に起こすことに(自分の考えをまとめやすくなる等の)インセンティブを与えることで、ユーザからの情報の入力を促進し、
2.公開する情報と公開しない情報の境界線を知覚しやすいインタフェイスを持つことで、ユーザに安心感を与える
ことを特徴とするツールを用意する。
こう考えると生まれてくるのが、「自分の頭の中にある情報と、インターネットに公開される情報の間の境界線をどこに置くべきか?ユーザはそれをどうコントロールすべきか?」という「ネットとデスクトップの境界線」の問題なのではないかなぁ……というわけです。
ただ、「境界線がデスクトップ内じゃなくてネット上にあってもいいじゃないか」と思われる方は当然居ると思います(匿名さんもそうかも)。例えばGmailのようなサービスは、まさにそのような感性から生まれたものでしょうし。そこに抵抗を感じてしまうのは、単に僕がネット世代*2の感性を持ってない、というだけのことなのかもしれません……。
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この問題については割と考えが行き詰まってるので、何か気付いた点がありましたら適当にコメントお願いします。
*1:プライベートな情報を平気でインターネット上に垂れ流してしまうような人は、とりあえずこの問題では対象外です。